平井雷太のアーカイブ

文章を書き続ける意味 2004/11/29

毎日新聞『新教育の森』に連載された「一人ひとりの子どもたちへ」の記事の第6回目をご紹介します。

2004年(平成16年)11月29日(月曜日)
一人ひとりの子どもたちへ?E

文章を書き続ける意味

 今回の原稿は、最近、村井実さん(教育学・慶應義塾大学名誉教授)から、「セレンディピティ(掘り出し物を発見する力)」という言葉をお聞きしたので、「教育と掘り出し物の関係」というタイトルで書きはじめたのですが、書いているうちに、「教師は教室通信を発行していくことが不可欠」と思いあたり、「通信を発行する意味」という原稿に書き換えました。そして、通信を発行することの意味を突き詰めていくにつれ、「書くことの重要性」を伝えたくなり、今回の原稿は「文章を書き続ける意味」になったのです。

 この連載を昨年引き受けて以来、このようなことが毎回起きています。ひとつの原稿で10回近くは書きなおしているでしょうか。原稿を書くために、ひとつのことを掘り下げて考えていると、自分の思考が整理され、伝えたいことが鮮明になっていきます。そして、それをまた突き詰めて考える、ということを繰り返していると、最初に書こうとしたこととは違う、思いがけないところに着地するのですが、それが自分自身の大きな発見となり、とても面白いのです。つまり、書くことで自分の中の「セレンディピティ(掘り出し物)」に出会っているのです。

 私が1983年12月に月刊で通信を出そうと決めたときの緊張感はいまでも覚えています。毎月、決めた日に通信を出すなんてできるのだろうか、書くことがなくなったらどうしよう。書けば書くほど、質の低下が起きたらどうしよう、と。それを公開するわけですから、自分の成長を社会にさらすことで、信用を失う結果にだってなりかねません。すごい不安からのスタートでした。教室で起きているどの部分をお知らせしようかと、子どもとのやりとりをできるだけ克明にメモにとったり、お母さんからの相談に答えた内容を文章にしたりしました。また、新聞を読んでも、本を読んでも、講演を聞いても、「これは通信に使えないだろうか」との視点で話を聞きますから、私にとっての本当の学びは、通信を出すと決めた時点ではじまりました。

 目の前で起きていることを自分の中で編集し、文章にし続けていると、伝えたいことが鮮明になっていきます。その結果、「自分で決めたことを自分で実現する子を育てるための援助である」ことが私の教育理念の核になったのです。         (つづく)

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