平井雷太のアーカイブ

「教育的」ではない教育 2004/12/20

毎日新聞『新教育の森』に連載された「一人ひとりの子どもたちへ」の記事の第8回目をご紹介します。

2004年(平成16年)12月20日(月曜日)
一人ひとりの子どもたちへ?G

「教育的」ではない教育

 23年前、当時6歳だった息子に「お父さん毎朝走るけど、一緒に走るか?」と提案してみました。三日坊主の私ですから、息子と約束しなければ続かないと思ったのです。そして、走るのだけではつまらないからと一輪車もやるようになると、近所の大人や子どもが自然発生的に集まり、中には一輪車の世界大会に行く人も出てきました。だんだん管理や組織化の話もはじまり、そうなると子どもとの自然な関係がなくなると感じて、結局、走ることもやめてしまいました。

 そんなとき見たのが、「ニュー・シネマ・パラダイス」という映画でした。戦後間もないシチリアの寒村を舞台にしているのですが、ここで唯一の娯楽の場はパラダイス座という映画館です。その映写室に、映写技師アルフレードというおじさんがいて、その映写室に親の目を盗んで通いつめていたのが、主人公のトト少年でした。アルフレードは映写室で、牧師からカットするように言われたキスシーンの場面をたんたんと切っているのですが、そこにトト少年が、怒られても、怒られてもやってきて、仕事の邪魔をするのです。

 この映画がいまでも印象に残っているのは、私が子どものとき、アルフレードのような大人が私のまわりにはいなかったからでしょう。私が関わってきたのは、親や教師、塾の先生などで、子どもを指示・命令で自分の思い通りに動かそうとする大人ばかり。アルフレードとはまるで違うのです。アルフレードからは、トト少年をこう育てたいとか、こんなことを伝えたいという意図は微塵も感じられず、子どもと大人の対等な関係を見せられた気がしたのでした。

 少子化がすすんで、一人の子どもにかかわる大人の数が増え、それも子どもに指示・命令をしたがる責任感を持った大人は、私が子どもだったときの数倍でしょう。そして、その大人たちが、子どものためによかれと思って、関わってくるのですから、子どもにしてみれば、たまったものではありません。学校でいえば、クラスの人数が少なくなって、子どもに目が届けば届くほど、学力が低下していく現象が起きているのですから、やっていることのおかしさ(過保護・過干渉)にそろそろ気がついてもいいころだと思うのです。

 そこで、25年前から、子どもに指示・命令をせずに、子どもは自分の学ぶものは自分で決められると思い、子ども扱いせず、意志決定のできる大人と同じように関わってきましたが、分かったことは、子どもはどの子も自分の学ぶものを自分で決められる現実でした。そればかりか、子どもはどの子も自分の育て方を知っているのです。ですから、私が子どもをこう育てたいと思うことがおこがましく、子どもが育ちたいと思っている邪魔をしないことが、せめて大人のできることなのかと、そんなことに気づかされたのでした。
         (おわり)

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