平井雷太のアーカイブ

『教えない、子どもに考えさせる教育』PHP増刊号 2006/1/1

2006年、平井の記事が、PHP増刊号に掲載されました。

別冊PHP 2006年1月増刊号 2006/1/1

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『教えない、子どもに考えさせる教育』
  平井雷太(教育研究家)

「教えない教育」は「何もしない教育」ではない

 「教えない教育」を実践して25年になりますが、「教えない教育」は「何もしない教育」ではありません。普通使われている「教える教育」は、結果責任を問わない「教えっぱなし教育」です。

 なぜ、私が「教えない教育」に着手したかというと、最初は息子に「確かな学力をつけさせたい」と思ったからです。私の息子はおとなの「○○しなさい」という言葉では決して動かない子、すなわち、自発性のある子だったからです。それに対して、自主性のある子とは、親や教師にとって都合のいい子、親や教師の顔色をうかがって、そこに合わせて自分からすすんで動く子のことだと、私は考えています。

 私自身、小学校の6年間を通じて、通知表の所見欄に「自主性がない」「言われたことしかしない」と書かれ続けましたから、教師から見ると、教師の思った通りに動かない私は、自主性のない子に見えたのでしょう。授業中、答えがわかっても、わかっていることをわざわざ答える必要はないと、自分から手を上げることはしませんでした。ですから「自主性がない」と書かれても当然だったのかもしれないのですが、「手を上げない」という自発性はあったのです。

 変なところが私に似て、私以上に保育園でも保母の言うことは聞くかず、「お宅のお子さんは問題がある」と、保育園に行くたびに言われていましたから、この子がそのまま小学校に行くと、学校に合わず、先生の言うことは聞かず、不登校になるだろうと思いました。

 そこで、息子のために教材作りをはじめたのです。とはいえ、「勉強しろ」と言えばやらない子ですから、息子に「指示・命令をせず、押し付けることをせず」を肝に銘じて。毎日コツコツやれば、だれだってできるようになりますから、「口出しせず(=教えない教育)、手出しせず(=○○しなさいと言わない教育)」で、子どもの声を聞きながら。

 その結果、現在「らくだ教材」と呼ばれている教材ができていきました。そして、しだいにその教材が小学校から大学まで、さまざまな教育現場で使われるようになっていったのです。


「宿題をやらないと怒られる」を超えたとき、本当の自発性が生まれる

 「教えない教育」を英語で言うときには、私は「セルフラーニング」と表現しています。しかし、辞書で調べても、「セルフラーニング」という単語は出てきません。私が作った造語だからです。そして、「セルフラーニング」の意味を「自学自習」とは訳さないのです。なぜならば、私が小学校や中学校のときに体験した「自学自習」は、その内容のほとんどを教師が決めていたからです。子どもたちが自分で自習するものを決めているなら、それは「セルフラーニング」です。

 最近、親御さんから次のような質問を受けました。

 「先生のところでは、子どもが自分で宿題を決めて持って帰っているんですよね。自分の学年より下をやっているときには簡単に終わりますから、私が『勉強しなさい!』と言わなくてもきちんとやっていたのですが、いまは2学年先をやっているからか、なかなかやらないんです。毎日、夕食後にやることになっているのですが、やらないので、つい『らくだ、やったの?』と聞くと、そのときだけは『やるよ』と言うのですが、やらないで寝てしまうことがよくあって……。やらせたほうがいいのか、まかせたほうがいいのか、よくわからないんです」

 そこで、私は次のように答えました。

 「思ったまま、言ったらいいんですよ。言われて“ありがたい”と思うか、“うるさい”と思うかは子ども次第ですから、何の躊躇もいらないと思いますよ。「言われてやっているん
だ」と子どもが思ったって、本当は自分でやっているんですから、心配ないんです。『プリントやりなさい』と1ヵ月ぐらい言い続けて、『お母さん、言い続けてきて疲れたんだけど、もっと言われたい? それとも言わないほうがいい?』と聞いてみるといいですよ。言うのをやめてやらなくなったら、言っていた意味があったわけでそれもいいし、言わないとやれないことがわかったんですから、それでこれからどうしたらいいかの対策が立つわけですから……。持って帰った宿題を1枚もやらずに、そのまま私のところに来る。それができれば、もうしめたものです。怒られるという恐怖から学習をしているのではないわけですから、そこから、学習することが自分の問題になっていくんです」


できない状態を否定せず、逆にラッキーだと考える

 そのためにはAまずその子のできない状態をまわりが否定しないことが重要です。というより、できない状態に出合えたことをラッキーだと思える人が子どものまわりにいればいいのです。プリントを何度くりかえしてもなかなか合格しない状態になれば、「できないことをできないまま続ける体験」「やる気のないままやる体験」ができますから、そんな状態のなかで、「やる気とやる・やらないは別という感覚」「できないことが大事という感覚」とか、集中力、粘り強さ、根気等々の生きる上で大切な力が育っていくのです。

 ですから、できない自分を受けいれることができれば、それができることにつながっていくように思うのです。つまり、その子に起きた問題を代わりになって解決してあげようとせず、その子が自分でその問題を解決していけるように援助することこそがポイントだということです。

 親が口出ししなかったことで、自分で持って帰った宿題が1枚もやれていないまま教室に来て、教室の後ろでそれらのプリントをやろうする子がいたら、私はやらせません。それが「教えない教育」流の援助です。プリントをやっていなくてもいいのです。そのことで怒らない人がいることを知らせる必要があるのです。


「決めた約束」と「決めさせた約束」はまったく違う

 「どうして、決めたことができないの!」と責める指導が最悪です。子ども自身が決めたことですから、ここで怒ってしまうと、せっかくの「決めた約束」が「決めさせられた約束」になってしまうのです。ですから、子どもがやってこなかった宿題を教室でやりそうになったら、「そのプリントを、いま教室でやるのはだめ。まずは、先生と相談してその日にやるプリントを決めないと……」と言うのです。そして、「やっていないプリントと記録表を先生のところに持ってきて、「どうして、このプリントを教室でやってはいけないのか、わかる?」と聞いて、「わからない」と言えば、次のように言います。

 「きのうやるべきだったことを今日やっても、それは帳尻合わせにしかならないよ。過ぎ去った日は取り返しがつかないから、反省してもしょうがないし、悩んでも意味がない。だから、いままでのことはすべてリセットすればいい。今日、この塾に入会したと思えばいいんだよ。学年より先のプリントをやっていて、もし、そのプリントが難しくて大変だったら、時間を計らないで、答えを見ながらやってもいいよ。目安時間12分のところ30分以上かかっているんだったら、12分でできるところまでやって、やめてもいいし……。
1日おきにやってもいいし、まとめてやってもいいし、自分に合った学び方をしていけばいいんだよ」


できない現実のなかにこそ、人が育つ素がひそんでいる

 いままで教育は、できることがよいこと、競争に勝つことがよいこと、がんばることがよいことと、そんなことが当たり前のように思われてきましたが、らくだ教材(セルフラーニング教材)を使って生徒と対峙しているうちに、「教えない教育」に行き当たったのです。

 できない現実のなかにこそ、人が育つ素がひそんでいるのです。ですから、競争させなくても、ほめなくても、物で釣らなくても、人は学ぶのです。いままでの教育であれば、できる一部の人たちだけを対象にして、できない子どもたちは放置され続けてきたのですが、できない子どもたちこそ、日本の教育を救う救世主だと思えて仕方ありません。

 私の息子だけを対象にして、「押しつけない、命令しない、強制しない」で作ったらくだ教材が、「できない子ども」にだけ対応できるものではなく、この25年の間に、幼児からおとなにまで対応できる教材であることが証明されてしまったのです。一人ひとりを大事にすることで、一人ひとりに関わる側が育つことを「教えない教育」は私に教えてくれたのでした。